久しぶりに思い出話です。
Facebookの5年前の今日、のポストに旅先の写真が出てきました。
そこから芋ずる式に、封印していた想い出が蘇りました。
結婚していた時は国内旅行は年に2回飛行機で。2~3泊。たまに海外。
はたから見ると、絵に描いたようなわりと平和な家庭だったかと思います。
それでも忙しかった元夫は、業界的にも立場的にも夏休みを取りづらく、いつもぎりぎりまで休みが決まりませんでした。
無理して夏に取らなくていいのに
ないならないでいい
そう言えたらよかったのかもしれませんが、向こうも行きたい気持ちと厳しい部分との狭間だったのかも。
ある夏①
北海道。妊婦で1児の母の私。札幌のホテルでパソコンを開いた夫に、ええ?と言ったらパソコンを投げて、キレられて、その夏会社を辞めていました。土曜日休みもなく、深夜も電話が鳴るような職場。やめた原因はここで仕事に対応出来なかったから干されたから、と言ってました。あとから調べると結構ハードな社風だったようです。知らなかった。
トマム、美瑛、富良野、旭川と旅しました。楽しかったな。
ある夏②
NHKのドラマ 坂の上の雲の影響で、四国は愛媛に旅行に行きました。
道後温泉、今治と2泊して、3日目。しまなみ海道のある島で、そこから夫が動けなくなりました。
当時子どもは1歳、3歳。
子どもを島の食堂の人達に預け、説得にロータリーに行くが、うんともすんとも動かない。先に行って、後から行く、とだけ言う。
じゃあ、、、レンタカーの鍵を貸して…私が運転していいの?どうやって帰るの?
答えはない。頷き鍵を渡すだけ。昨日までは楽しんでいた気がするのに。
島の人たちにも、「置いてったら死んじゃうかもよ、危ないよ、あんたたちも残りなよ」と言われたのですが、梃子でも動かない夫。
宿に行かなきゃ、この島に全員でいてはいけない、と初めてレンタカーを私が運転することに。後ろに子ども二人載せて。初めての山道。暗くなってからはもっと危ない。
無心で3時間、慣れない車を運転。
松山に着きました。
夫は、後から22時過ぎに街に戻りましたが、(バスが19時くらいまで出ていたみたいです)ホテルはキャンセルのままでいいと。宿の人も首をかしげます。それから電話も繋がらず、朝連絡が。朝まで外で仕事だったのこと。
翌日からは合流。自殺まで覚悟したときでした。何があったのか、未だに理解に苦しみます。運転を任せ過ぎたのがいけなかったのか、分からないです。
正直、宿について3人でご飯を食べ、温泉につかり・・・心配してももうしょうがない、連絡も取れない、明日には死んでいると連絡が来るかも、と覚悟をし、のんびりしたときはちょっとホッとしました。いつも忙しくてイライラしてて、このまま40過ぎても楽しくやっていく姿が想像できないかも…。
たまたま松山に同級生がいて、"そうなったら捜索とか移動とか手伝うから"と言ってくれたのもあり。
あまりにその時の夫の気持ちが想像できなかった。ごめんなさい。
翌日チェックアウト後に駐車場で合流。私の運転で、予定していた通り松山城に行きました。
なんとか無事に羽田に着いたものの、駐車場でも怒られ、雰囲気は最悪でした。
ある夏③
ギリギリまで、行けないかもと言っていた夏。行く前の日はよりによって徹夜、朝から出発して長野に2泊で行きました。
3日目、山の中で、また失踪しました。仕事が忙しそうで、その日はチェックアウト後のホテルを、工場の予約時間があるから、私が頑張る、と運転しました。
ところがナビで分かりにくい山道で迷ってしまい、”困った・・・”と言ったら、”あなたと一緒にいると気持ち悪い”みたいに言われて、車を降りて、乗ることはありませんでした。
迷うほどの山道です。
前の年の四国の経験があったので、また、「ここで説得しようが無理だろう」と、2人を乗せてなんとか予約していたアイスクリーム工場などに行きました。
夫は、当日の夜中に中央線で帰ってきました。
間、何を考えていたのかは分かりません。
この頃よく、”ひとりになりたい”と言っていました。私は中央道を、「ああ、まただ。また起きてしまった」と思いながら帰りました。子どもたちも、パパがいないことに慣れていました。渋滞もあり、目がカピカピで、途中でコンタクトをメガネに変えました。母兼父、を意識しだしました。ドライバー、大変なんだな。いつも宿についてすぐ寝る理由が分かった。でもそれにしても小さい子2人置いて私を1人にしなくても…。
それ以降週末は首都高を運転して極力実家に帰り、1人の時間を作ってあげるようにしました。子どもが産まれたばかりの時はペーパードライバーだった私が、どんどん逞しくなっていきました。
ちょっとした旅行なら、1人か、母を誘い行けるようになりました。
職場でも家庭でも、なかなか1人になれず、奥さん(わたし)には癒されず、めちゃめちゃだったのでしょう。その年1人で富士山に登っていました。
(私は知らされず、パパ友さんに聞きました)
お互いが30代後半、子どもはまだ小さい頃です。
楽しいはずの家族旅行で2年連続こんな辛い思いをするとは、さすがにもう離婚するしかないかもしれない、と覚悟しながらハンドルを握りました。
秋にはやり直したい、もう少し頑張りたい、と言われましたが、私は少しずつ離婚、別居に向けた情報収集に動き始めました。
翌年、さらに夫の仕事が忙しくなったのが引き金で、別居しました。幼稚園、保育園があるとはいえ、育児もまだまだ大変でした。
それは後半の話で、もちろん楽しい想い出もいくつも思い出されます。子どもが2人になり、さらに色々難しくなったかも。管理職になったから休みが取りにくくなった、というのもありそうです。
今年も、"まだ休みが分かりません、すみません"と。
"いいですよ、私が旅行に連れていけますし"と答えています。
いつもハイプレッシャーな仕事が仇となっていた気がします。苦い思い出です。
どこにも書いたことがなく、当時相談していたママ友と、当時書いていた裏ブログにしか書いていないです。久しぶりに吐き出してみました。書ききれない部分は本にも書いています。
書き終わって、みんながストレスなく、仕事や育児、家庭を楽しむことができたらいいのに。と思いました。胸が痛い。
引き続き、幸せ、探していきます。
復縁は無理だろうけど、お互いが幸せになれますように。
サイトでも、バツイチの方と多く知り合います。
みな、事例は違えど相当な悩みやトラウマ、事件を乗り越えて離婚し、また新たな幸せを探しているんだと思います。特に一度離婚している人には、ご縁があろうがなかろうが、人として、お互い理解し合い、優しく、穏やかに、人として、大切に接していきたいです。
書いて良かった。決意を新たにします。
今は、元夫とは、離婚してそれぞれが平日、週末と分担して育児をする、連絡は必要なことは取り合う、というスタンスでいて、何とか成り立っています。PTAのお仕事も一つお願いしています。
昔は、運動会の場所取りも私がしていましたが、今ではできる余裕も少しは出たみたいです。協力してくれています。
平日は、毎日はやくから仕事に行っても、遅くに帰ってきても、時間が分からなくても、私に怒られない、嫌みを言われない、環境。週末は、育児をしながら仕事もしているようです。
うちの場合、珍しく離婚理由が浮気とか借金とかそういうことでもなんでもないのですが、一緒にいない方が幸せなこともあるのだと思います。
今思うと、あまり期待せずに"私も休みが取れないや"と、もっとドライに働きに出ていた方がよかったかもしれません。自分で仕事を調整できるのも少し仇となったかも。未だに何が正解か分かりませんが。
貴重なお休みに、家族サービスが、プレッシャーになっていたのかもしれませんね。放置が一番本人にとって幸せなこともありそうです。仕事が忙しくなればなるほど。
リレーコラムに合わせたら、3,500字になってしまいました。長文をお読みいただき、ありがとうございます😌